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「備える」(三崎裕大)

お疲れ様です。

いつもお世話になっております。

今後ともよろしくお願いいたします。

 

これらの言葉は主務である僕が他大学の監督の方や各連盟の役員の方に送るメールの文章の中で使っている言葉だ。僕は2年生の途中に選手の離脱により空いた穴を埋めるため、用具部門から主務部門にコンバートされた。今思えばこの時が僕のコンバートプレイヤーとしての始まりだったと思う。

 

僕は1年生の頃はCBとして練習していた。その後2年生の春に行われた練習試合で人数不足からFWをすることになり、そこでのプレーが評価されFWとしてプレーするようになった。この時から公式戦にスタメンとして出られるようにもなっていった。そのままFWとしてのプレー期間が続き、このままFWとしてプレーするだろうと思っていた。しかし、4年生の夏、ガイナーレ鳥取との練習試合で終了間際にMFをした。これをきっかけにMFとしての可能性を見出していただき総理大臣を終えた中国リーグ後期からMFとして試合に出るようになっていった。このように僕はCBからFWとなり、今では主にFWMF、時にCBをこなしていくプレイヤーとなった。1人に複数ポジションを求められることがある広大サッカー部で、この3つのポジションをこなせることは強みであると思っている。昨年のインカレ後に書かせていただいたブログの中で選手層が薄いことを危惧していた自分としては、怪我が多く苦しいチーム状況の中で僕自身が代役を担う選手としてプレーしていることに嬉しさを感じていた。

 

このように書けば、3つのポジションができ、昨年のブログに書いたことを実現させていて、うまく進んでいるように聞こえるかもしれないが、実際はそんなことはなく、苦しい時の方が多かった。

 

特に4年生では苦しい時期が多くあったように感じる。その中の2つでみんなに伝えたいことがある。

 

広島大学では現在A.B.C.Dとカテゴリー分けがなされているが、A.BC.D2つに分けて練習を行っている。3年生のころからA.Bで練習に参加していたが、4年生の春の時期、コーチ不在という理由によりC.Dで練習することになった。4年生になりトップチームのFWとして試合に出場していく自信と決意はあったが、チームのためという理由からC.Dで練習した。C.Dでの練習が2か月続くと、だんだんと焦りも生まれ、どうして自分がという思いも芽生えていた。あの時、C.Dでの練習を断っておけばとも強く感じた。しかし、ベクトルを自分に向けず、その不満を抱えたまま生活することは、時間を無駄にする行為だということも理解していた。広島大学ではコーチや監督の方々が選手をしっかりと見てくださり、C.Dからでも上に上がることは可能な環境が作られている。逆に言えばA.Bからでも簡単にC.Dに落とされるということで、実際に突然C.Dに落とされる選手は少なくない。そんな選手に、C.Dで練習することになり不満も抱えるかもしれないが、その感情を抱えたまま、やる気のない状態で練習することはやめろと言いたい。こんな感情でプレーする選手を見ると、僕は「もったいない」と感じる。自分ではそんな感情でプレーしているつもりはないと思うかもしれないが、ボールを奪いに行く場面やトランジションの場面でどうしても、その感情による「遅さ」は出てしまう、そんな時は、自分が試合に出ていたころ、うまくいっていた時期を思い返してほしい。その時は、自分のプレーを迷わなかったはずで、自信が故の「速さ」があったはずだ。たとえC.Dに落ちたとしても、コーチ陣は見てくださっている、そして一度はA.Bでプレーしていたことに自信を持ち、落ちたことに感情をぶつけるのではなく、前を向き、上がるためにできることを貪欲にやってほしい。確かに、練習自体の強度は少し下がるかもしれないが、トランジションやボールを奪う技術、足元の技術は個人の問題で、それはトップでは当たり前に求められているもので、わざわざ言うものではない。強度が低いなら、A.Bでチャレンジできないことにチャレンジできるはずだ、できることを見つけてやる、それでしかA.Bに戻ることはできない。

 

もう1つは、中国リーグの後期からMFをしていた時期だ。前期は全勝だったチームが後期になって、苦しい試合が続いた。すべてがそうだとは言わないが、今までいた香取潤(3年)がいなくなったことはかなり大きかった。その代わりに試合に出ていたのが僕だ。練習ではいつも俺ならできると不安を出さないために、大口をたたいていたが、いつも潤だったらと感じていた。実際潤が少しずつ復帰できるようになり、前半だけ試合に出ると、問題なく点を取り、いい流れで始まる。僕が出ると、うまくいかず、ハーフタイムにフラストレーションを貯めて帰ってくる選手も多い。この状況は本当につらかった、自分の技術を責めることは毎日で、自分の下手さを責めた。しかし、今思うとできていることもあったと思う、ではどうして今までCDFWとアンカーなんかやったことない自分が出られたのか、それは、頭でサッカーをしていたからだと思う、サッカーは相手ありきのスポーツでどのポジションでも相手を見てプレーを決めることは変わらない。その部分で言うと、僕は的確な判断ではないし、技術も足りてはいないが、ある程度は判断してプレーできるようになっていると思う。これは、高校まで遠くまで蹴ることしか脳のなかった自分が、4年間でつかんだ技術だと確信している。ここからみんなに伝えたいのは、今のポジションでずっとプレーできるとは限らないし、違うポジションの方が得意かもしれない、そしてそれに気づくのかいつなのかわからないということだ。僕はある日突然違うポジションになったが、それでもできたのは、サッカーが相手ありきのスポーツで、相手によってプレーを選択することはどこのポジションでも変わらないからだ。いつ来るかわからない、チャンスをつかむために技術もそうだが、それよりも頭を鍛えることは、広大サッカー部においてかなり重要なことだということを後輩は知っておいてほしい。

 

さて、長々と書いてきたが、後輩に伝えたいのは、チャンスはいつ来るかわからないということ、下向くことはもったいなく前を向いて備えたほうがいいということ、そして、そのチャンスのために頭の備え、技術の備えをしておかなければならないということである。そんな備えができている選手を、上泉監督をはじめコーチ陣は見逃さない。備えをすれば必ず輝ける瞬間が来ることが来る環境に広島大学体育会サッカー部はなっている。今までコーチの方々や、上泉監督に拾われ続けた僕自身の経験から言えることで、今では本当に感謝している。

 

今週から僕はC.Dで練習することになり、1121日に肉離れになった。どうして今なのかと込み上げるものは多いが、僕は必ず、もう一度全国のピッチに立つ。このままでは終われない。あと少し頑張ろう。

 

 

最後になりましたが、アイグラン様をはじめ、いつも弊部を応援してくださるOBの皆様、試合に足を運び応援してくださる皆様、03のみんな、後輩のみんな、いつも支えてくれる両親、友人にこの場を借りて感謝申し上げます。

これからも広島大学体育会サッカー部を応援よろしくお願いいたします。

 

長く拙い文章でしたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

三崎裕大