チームプロフィール

エンブレム理念

①   「平和の希求」

エンブレム上部にデザインされた旧理学部被爆校舎は、原爆投下を物語る遺構として、今もなお広島大学東千田キャンパスに保存されています。また、エンブレムの左右に燃える炎は、平和の火を絶やさぬ人々の願いが込められています。

②   「復興と不死鳥」

広島の町が原爆投下から復興を遂げたように、不死鳥は、どんな苦難に陥ろうとも常に復活・再生を遂げるチームの魂を表しています。

③   「フェニックスの葉」

東千田キャンパスの森戸通りに植えられたフェニックスの樹は、戦後、広大生の成長を見守り続け、その葉は今も復興のシンボルとして広島大学の校章に刻まれています。

④    「設立年」

男子サッカー部は、現在の東千田キャンパスにかつて存在した広島高等師範学校において1903年に創部されました。その後、時代は下り、1993年に西条キャンパスで女子サッカー部が、2010年に東千田キャンパスでフットサル部が、それぞれ広大のフットボールファミリーとして誕生しました。

 

 

クラブ理念
私たち広島大学サッカー部は、中国大学サッカーリーグ1部を戦っており、「頭で相手を上回るサッカー」を目指して、相手に対していかに効果的なプレーができるかを常に考えながら練習や試合に臨んでいます。他の私立大学に比べれば、テクニックやフィジカルの面では劣っているかもしれません。しかし、サッカーはそれだけで勝敗の決するスポーツではないはずです。1日2時間という短い時間の中で、いかに効率よく成果を出せるか、頭をフル回転させながら全国大会出場に向け日々トレーニングに打ち込んでいます。なお、2018年の新体制以降は、ポルトガル発祥の戦術的ピリオダイゼーションにフットサルとTRMトレーニングを取り入れた、独自の広大式メソッドの構築と発信を試みています。
 

チームロゴ(簡易エンブレム)由来

チームロゴは、正規エンブレムの理念を継承し、旧理学部被爆校舎の形をベースにHiroshima University のイニシャルのHとUで、翼を広げた不死鳥の頭と尾を表現しています。

また、この不死鳥の尾は、不死鳥の雛の頭にも見えることから、育成型のクラブを象徴しています。なお、当デザインは、2019年に考案された正規エンブレムを2022年の全日本大学サッカー選手権大会出場を機に簡略化したもので、その意図はシンプル化によるメモライズや露出機会の多様化、広大ブランドの再構築にあります。

 

 

 
 
クラブ120年の歴史
1902年(明治35年)広島高等師範学校創立
1903年(明治36年)4月: 創部、広島高等師範学校の課外活動に校友会「蹴球部」を設置
1907年(明治40年)5月: 広島高等師範学校の広瀬四郎教授が東京高等師範学校(東京教育大学、現 筑波大学の前身)蹴球部を見学
1908年(明治41年)8月: 東京高等師範学校蹴球部出身の牧野信寿先生が広島高等師範学校の体育教師として赴任、その後、監督として蹴球部を指導
1910年(明治43年)1月: 広島高等師範学校英語教師に英国人プリングル教諭、サッカーを指導
1911年(明治44年)2月: 広島高等師範学校でサッカー校内試合、広島商業を招待
1914年(大正3年)4月: 広島高等師範学校が神戸遠征
1919年(大正8年)1月: 広島高等師範学校で、似島に収容のドイツ兵捕虜と広島高等師範学校などが試合(歴史上日本初のサッカーの国際試合と言われている)
1922年(大正11年)11月: 広島高等師範学校と付属中学の連合チームが極東大会国内予選で決勝進出
1923年(大正12年)広島高等師範学校主催で広島一中(現 国泰寺高校)、付属中、高等師範のリーグ戦開始
1926年(大正15年)広島一中と広島高等師範学校の東宮台覧試合が一中で開催
1929年(昭和4年)広島文理科大学創立
1945年(昭和20年)8月6日: 広島に原爆投下、広島高等師範学校や広島文理科大学の多くの学生が犠牲になる
1949年(昭和24年)広島高等師範学校および広島文理科大学を含む官立7校を包括、広島市立1校を併合し、新制大学として広島大学が設置される。設置当初の教育学部には、安浦分校(後に福山分校)・東雲分校・三原分校が置かれる
1950年(昭和25年)5月: 教育学部安浦分校福山教場が教育学部福山分校に改称、以降、およそ40年間、広大福山でサッカー部の活動が行われる
1956年(昭和31年)4月: 高部岩雄先生(東京教育大学出身、体育原理専門)が教育学部福山分校に着任し、広大福山サッカー部の監督に就任
1968年(昭和43年)広大本部が第17回全国大学サッカー選手権大会でベスト8進出を果たす
1969年(昭和44年)福山分校高体のメンバーが広大本部(東千田)で合同練習を開始
1970年(昭和45年)水畜産学部(現 生物生産学部)の学生も広大福山サッカー部に加入するようになる
1978年(昭和48年)広大福山サッカー部が全日本大学サッカー選手権でベスト8進出、広大本部の最高戦績に並ぶ
1980年(昭和50年)4月: 柳原英兒先生(東京教育大学出身、運動学専門)が教育学部東雲分校に着任、のちにサッカー部部長を務める
1980年(昭和50年)広大福山サッカー部が全日本大学サッカー選手権で2回目のベスト8進出
1982年(昭和57年)それまで別チームで大会等に出場していた広大本部(東千田)と広大福山が合同チームになる
1984年(昭和59年)高部岩雄先生が定年退職し、1987年(昭和62年)までの3年間、広大福山は監督不在
1988年(昭和63年)4月: 沖原謙先生(広大付属高校、早稲田大学出身、スポーツ経営学専門)が教育学部福山分校に着任し、サッカー部監督に就任する
1989年(平成元年)大学院教育学研究科・教育学部が東広島キャンパスへ移転を完了。練習場所が広大福山から広大西条へと移る。
1993年(平成5年)3月: 総合科学部が東広島キャンパスへ移転完了。これまで1年生は1年間東千田で教養教育を受けていたが、当該年度から1年生は最初から西条キャンパスとなり、西条の部活動がメインとなる。
1994年(平成6年)3月: 東千田から西条への統合移転が完了し、広大東千田の練習はなくなる
1995年(平成7年)総理大臣杯全日本大学サッカートーナメントでベスト8に進出し、部としての歴代最高戦績に並ぶ
1995年(平成7年)天皇杯全日本サッカー選手権大会に出場し、1回戦で当時日本代表の中山雅史や名波浩、ブラジル代表ドゥンガらを擁するジュビロ磐田と対戦
2006年(平成18年)4月: 上泉康樹先生(平成3年度広島大学教育学部教科教育学科体育教育学専修入学、筑波大学大学院修了、スポーツ哲学専門)が総合科学研究科に着任する
2008年(平成20年)3月: 部長の柳原英兒先生が定年退職
2009年(平成21年)4月: 上泉康樹先生が部長に就任する
2010年(平成22年)村上一樹氏(平成18年度工学部入学)がJ2のFC岐阜に入団、OBとしては初のJリーガーの誕生
2011年 (平成23年)中国大学サッカーリーグ入替戦で2部の川崎医療福祉大学に0-2で敗れ、初の2部降格
2012年 (平成24年)中国大学サッカーリーグ2部優勝、1年で1部復帰を果たす
2017年(平成29年)11月: 上泉康樹先生がOBとしては初の監督に就任する
2019年(平成31年)2月: 広大初のバルセロナ海外遠征を実施、リーガ4部のフピテルとカンビダレットと対戦し一勝一敗
2019年(平成31年)3月: 広島大学南グランドに人工芝グランド(通称/東広島ドリームフィールド)が完成
2022年(令和4年)11月: 中国大学サッカーリーグ1部準優勝、25年ぶり13回目の全日本大学サッカー選手権出場を決める
2023年(令和5年)8月: 創部120周年、株式会社アイグランとメインスポンサー契約を締結、ユニフォームの胸に広告を掲載
2023年(令和5年)10月: 26年ぶり10回目の中国大学サッカーリーグ1部優勝、2年連続14回目の全日本大学サッカー選手権出場を決める、開幕から史上初の15連勝、優勝時には75得点・3失点、3試合を残しての優勝で、名実ともに古豪復活を遂げる
2023年(令和5年)12月:全日本大学サッカー選手権1回戦(vs 富士大学(4-1))に勝利しベスト16進出、全日本大学サッカー選手権での勝利は1980年の福山分校(vs 岩手大学(3-0))以来43年ぶりの快挙となる
2024年(令和6年)2月:元日本代表 / 元サンフレッチェ広島の佐藤寿人氏がテクニカルアドバイザーに就任する
2024 年(令和6年)7月:中国大学サッカー選手権準優勝、21年ぶり12回目の総理大臣杯全日本大学サッカートーナメント出場を決める
2024 年(令和6年)8月:長崎大学とともにPeace Matchを開催
2024 年(令和6年)9月:第48回総理大臣杯全日本大学サッカートーナメント1回戦(vs 鹿屋体育大学(2-2(PK:4-3)))に勝利し1995年以来29年ぶりとなるベスト16進出を果たす、2回戦(vs 明治大学(2-4))では一時2-1と逆転するも後半に3失点を喫しベスト16敗退となる